神楽も囃子もないけれど、せめて祈りを捧げましょう
縁側の柱に背を預け、月を映す池を眺めていた。
ゆらりと風に揺れて波打たせる。
一つ雫を落とせば輪が水面を走り抜けた。
飽きることなく揺れる半月の月。
時折寝惚けた鯉が雫を立て、音を鳴らす。
然しそれ以外は静かなものだった。
家の者は寝静まり、起きているのは自分のみ。
草木も眠る丑三つ時とはまさにこの時刻のことを言うのだろう。
蟲すらも寝入っているかのように静まり返っている。
傍に置かれた膳には当たり前のように徳利と杯。
未成年に出す物ではないな、と言いつつも理解ある両親に感謝する。
しかし手をつけられることもなく、杯に注がれた酒。
池の水のようにゆらりと揺れた。
月見酒へと洒落込むには、月はあまりにも朧だった。
青の染料に黒色を落としたような夜陰の空。
頂点より少し傾いた位置を巡る白金色の半月。
掠れて見えるのは薄雲を纏っているからか。
孤寂の宴を催すには、あまりにも条件が悪すぎたのかもしれない。
彼方の地へ赴いたもう一つの月はどうしただろうか。
尤も、アレは月と言うには眩し過ぎる。
然し、太陽と言うには余りにも影が多すぎた。
人によってはそれでも太陽だと称する物もいるが、少なくとも自分にとってアレは月。
暗夜を照らし、狂気を包み覆い隠し、安寧の夜を見守る、満月。
またそれとは逆に獣の本能を呼び起こし真影な禍を呼び起こすとも言う。
まさに表裏一体の高嶺の華。
脳内に思い浮かべたあいつは今頃何をしているだろうか。
怪我をしていないだろうか。
無事ならばそれでいい、ゆっくりと想いを馳せて眼を瞑った。
まるで眠るように囁かな祈りだった。
心配する必要など、本当は無いと知っていた。
知ってはいてもそうすることで、今すぐにでも駆け出したい衝動を何とか保ち、
均衡を保つ事で『今』を生きていた。
結局自分があいつの隣に立とうとも足手まとい。
それを自分は酷く理解していた。
自分の手駒は一般よりも少しだけの才能と技術。
そして優秀すぎるこの脳味噌と言う名の情報解析機。
手助けは出来ても微々たる物。
ましてや隣に立つなどもってのほか、背を守ることすら臆病になる。
ゆったりと時間を書けて目蓋を持ち上げた。
先刻より大分位置のずれた水面の半月。
白み始めた山裾の黒色。
また『今日』が始まるのかと、憂鬱に呼吸を3度繰り返した。
彷徨う手がすっかり忘れていた杯に手を伸ばす。
然しその手は僅かな空気を掴むだけに終わる。
池に向けていた目線をゆらりと移す。
然し、それは予期せぬ干渉に阻まれた。
目前に広がるのは焦がれた金色。
空よりも深い海を切り取ったような青色。
背中に衝撃を感じなかったのは、こいつが考慮したからだろう。
覗き込まれるようにじっと瞬きを忘れて魅入ってしまう。
夜陰に栄えるその色相に無意識のうちに手を伸ばして居た。
寝惚けてるのか、と問われああ、そうかもしれないと言葉を出した。
これはもしかしたら夢なのかもしれない。
それでもあいつがここにいるのならそれでもいい。
だから現実と隔絶するためにたった一言言葉を紡ごう。
『おかえり』
衝動も戸惑いも疑念も幸福も恋情も全てをひっくるめてたった一つの言の葉に込めて。
無事であることを喜び、願いの成就を祝って謡うように音を乗せた。
帰宅を喜べば、とても嬉しそうに子供のようにあいつは笑った。
無事を確認するよりも、怪我の有無を尋ねるよりも何よりも先に聞きたい言葉があった。
たった四文字の言葉が俺の鼓膜を微かに揺らした。照れくさそうに言いなれない言葉をあいつは告げた。
だから聞きなれない言葉を俺は当たり前の顔であいつに告げて握られた手に力を込めた。
「ただいま」「おかえり」名前を呼んで囁き合って笑い合う。
当たり前の言の葉を当たり前に受け取れる日が来る事を願って。